2020年はウィルスによってかつての生活が奪われました。75年前は人間によって生活が奪われました。こういう状況だからこそ、改めて考える時間を持ちたい。#私ができることから #戦後75年 #戦争について考える #日系人
今日で終戦から75年が経ちました。
当たり前ですが年々戦争が遠い過去になっています。
しかしこうして遠くなっていくことで、
私達は身近な問題として考えられなくなってしまいます。
そこで一年に一回は平和について考える時間を持つため、
今年は私が知っている情報をお伝えすることで
その時間を過ごしたいと思います。
先日NHKで、「最近は戦争の遺品がインターネットに出回り、
それを身に着けて写真を撮ってネットにあげる」という、
俄かに信じがたい出来事を耳にしました。
私たちから戦争がかけ離れた存在になった「お陰」かもしれません。
毎日命からがら銃弾から逃れたり、
爆撃によって亡くなった方々の亡骸が町中に溢れているという光景が
当たり前の日常ではないためです。
しかし、戦没者遺族の気持ちに寄り添えれば
決して遺品を購入して写真を投稿する所業はできないはず。
このような無神経甚だしい行為は
最近問題の危険運転、その他迷惑行為にも関係していて
それは想像力の欠如が招いている、そう思います。
今回は私なりに当時の人々の思いを想像しながら書いてみます。
78年前の1942年3月
アメリカ西海岸で生活していた約12万人もの日系人が
強制収容所に移送されました。
強制収容所という名前を聞くと
ナチス政府によって迫害を受け殺害された「ユダヤ人」を連想するかもしれません。
しかし日本人も戦時下の人種差別の末
突然日常が奪われました。
きっかけは、1941年12月7日
日本軍による当時アメリカ領ハワイ、オアフ島真珠湾奇襲攻撃。
それによってアメリカが参戦し太平洋戦争が開戦しました。
2か月後の1942年2月19日
当時のフランクリン・ルーズベルト大統領が
「大統領令9066号」に署名したことで、
アメリカ西海岸に住んでいた日本人と、
アメリカで生まれ、アメリカ国籍を所有し、
アメリカで教育を受けてきた日本人の外見をした「アメリカ人」が
最果ての地に建てられた全米10か所に位置する収容所へと強制的に送られました。
西海岸で日本人が住む町には
順次収容を知らせるポスターが張られました。
ポスターが張られてから、
送還されるまでの時間は48時間から72時間と言われています。
家具や車、家、商売道具など彼らの日常で使用しているもののうち
一人スーツケース二つ分ずつしか収容所へ持ち込むことは許されませんでした。
運べない家や車、家具などは売却するか、
誰かに譲るかしか術はありませんでした。
中には留守にする間保管できる場所を見つけ、
そこに日用品を保管していた人も多くいました。
私が働いていたパナマホテルの地下や、
お寺、シアトルにかつて存在した銭湯も
収容所に送られる日系人の荷物で一杯になったと言われています。
日系人たちはポスターが掲出された当初、
自分たちがどこへ行くのか、
どれくらいの期間住んでいる地域を離れなければならないのか、
何も情報がないままにバスに乗せらました。
そして各々には身分を特定できる紙の「タグ」を
身につけなくてはなりませんでした。
まるで荷物のように―

多くのアジア人が住んでいた現在のシアトル
インターナショナル・ディストリクトに住んでいた中国人の多くは
日本人か区別がつけられない白人たちに向けて、
「I am Chinese. (私は中国人)」
というバッジや名札を身に着けていました。
そうでないと日本人差別の対象になってしまうからです。

そして日本人を強制収容所に送る法律は
アメリカに倣いカナダ政府とメキシコ政府でも施行され
ブラジル、ペルー、チリなど南米に住んでいた日本人は
アメリカの強制収容所に送られました。
シアトルで商売をしていた日系2世はアメリカ人なので、
店に「I am an American.(私はアメリカ人だ)」

という大きな看板を掲げるなどして、
外見とは異なるアイデンティティを主張しました。
しかし、それでも親は日本人のため
日本の血が流れているため、日本人として扱われたのです。
収容所送致対象は敵国民である日本人の血が流れている人です。
アメリカの西海岸に住む日系人だけでした。
アメリカ中部や東部は地理的に日本から距離があり、
一方西部は日本から近かったため、
スパイになる懸念があったことが理由です。
日本人の血を引く者はアメリカ人であっても
例外なく収容されました。
真珠湾攻撃の1か月前、1941年11月、
米国に住む最大1000人の日系人を日本へ帰国させるため
日本政府は救済船「氷川丸」を手配します。
それに乗ってアメリカから出国した人は僅か300名ほど。
恐らく日本と米国の関係が悪化していたことは
当時のアメリカで暮らす日系人も知っていたはず。
それでも12万人もの人々は救済の船に乗らずアメリカに残りました。
彼らにとってアメリカが生活する場所であり、
生きる場所へと変わっていたからではないでしょうか。
アメリカ国籍を持つ日系2世の子供を置いて
日本へ帰国することのできない親も多くいたでしょう。
開戦前に帰国した日系2世の中には、
母国であるアメリカの大学で学んだ航空工学と
母国語の英語力を活かして、
日本軍の戦闘機のエンジニアや通訳として
母国アメリカと対峙した人も少なくなかったと言います。
日系人の立場や気持ちを想像してみてください。
想像してそこから考えてみることを大切にしたい。
両親は日本から出稼ぎで渡米した日本人。
アメリカでその両親の下に生まれ
アメリカ人として生きてきた。
アメリカでアメリカの教育を受けてきた。
日本語や文化を学ぶ時間は放課後に通っていた現地の日本語学校だけ。
当時も日本人だけでなく中国人も含めたアジア人への差別は日常的にありました。
アジア人だからという理由で突然殴られたり、
就職の機会も人種を理由で断られ、
日本人という理由で大学の授業の一環のボーイングでの実地学習では門前払い。
そういった人種差別を日常的に受けながらも
なんとか助け合いながら励ましあいながら生きてきた。
しかし戦争を機にアメリカ国籍を持つ日系人は
母国の政府から敵だと指をさされ、
収容所に送られ1945年の終戦の年まで
約3年間収容所で生活することを余儀なくされました。
この記事で伝えたいことは
アメリカが日本人にひどい仕打ちをした
ということではありません。
日本人も差別します。
残念ながら違いが存在する限り人間は意識的・無意識的に差別をします。
差別をする立場に人種や国籍の違いはなく、
最終的には個人の問題です。
特に自分たちの優位な立場が脅かされ、
不安や恐怖の状況に置かれると
防衛本能から差別行為が自然と発生します。
実際、収容所に送られる日本人に
支援の手を差し伸べた白人のアメリカ人もいました。
収容所にサッカーボールを持って行った白人の先生や
白人の子供たちもいました。
最後は各々がどう考えて行動するかが重要です。
戦時下やパンデミックなど生存の危機に直面すると
正常な判断はできなくなるのではないでしょうか。
置かれている状況から、
最善の想像力を働かせ未来について考え
どう行動に移すか、
それが社会を構築するうえで大きな原動力になります。
人間に備わっているアドバンテージとしての想像力を
よりよい社会へと導けるよう、
授かった能力を存分に発揮できるようになりたい。
一人でも多くその想像力を社会にむけて発揮できるように。



